確実な手遅れ

テンションに任せて、暗いこと言います。
よく、失ってからその価値に気づくなんて話があります。
最近の境遇から、強く同意しますね。
少し解釈を改めますと、失うからこそ、価値が生まれてると言えそうなものもあるんだと、言える気がしませんか。
もっとも、ものやお金、注意深くさえしていれば時間といったものは、物質の存在や定量化された数値なんかがあるので、分かりやすいです。
一喜一憂している私のような人間は、ある意味踊らされてますけど。
あえて言いたいのは、人や心です。
嫌いな人に対しては、自分の注意を払わないので問題なさそうです。ただし、その嫌いな人を意図的に排除するのなら別ですが。
僕は、本来大事にすべき人を大事にしない、ということが問題に感じました。
思い付く対象は、恋人・家族・親友・自分くらいでしょうか。
もちろん、人それぞれの価値尺度があると思いますので、適用幅があります。
これらに共通して当てはまりそうな不安要素は、あって当然と解釈されやすいことではないでしょうか?
人と人の繋がりは、多くの場合、強いことが理想でしょう。
その理想が実現し、いつしか永遠を感じることがあります。
実に素敵なんですが、この永遠、とても虚弱です。
後ろ楯がありません。
じゃあ、永遠ぽいことは、何が永遠たらしめるのでしょう。
僕は、暴力的な十把一絡げにメンテナンスと解釈しました。
メンテナンスと言うのは、いわば理想の実現という事実の解釈です。
恋人ができました。
きっと明日は、いや明日も恋人です。
明日も恋人だということは、かなり確からしいです。
そんなとき、明日は彼を失っているかもしれない。
そう思うことはできますか?
失うことを考えると、底知れない恐怖に襲われるかもしれません。
だったら、そんなこと考えなければいいのですが。
最悪を想定していれば、最悪の悲しみをいくぶん和らげられる。
そんな後ろ向きなことを言いたいんじゃないんですよ。
失う不安の絶対値は、実現している喜びに勝るんじゃないかと感じている。
それだけです。
僕は、時折、失う不安を感じることはあります。
いくつかあります。
ここで申し上げる必要のないものもあるので、多くは語りませんが。
その一つは、マウンテンバイクです。
年明けに、遂に自分の手元に持ってきて、いくらか調整を行った日から。
突き詰めて考えれば、不安に囲まれているものです。
そこを感じられなくなると、不安を越えて危険なのかもしれません。

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