自分が満たされる時はくるか

もう7月である。

6月もソコソコ死んでいたけれど、7月はあらゆる利害が絡み合い、複雑に死んでしまいそうである。

高校3年の頃、僕が通っていた学校では、校長が担当する「宗教」という時間があった。

生徒会の歩兵(役職とかない事務員)として高校2年生の時間を捧げ、おかげさまで校長との面識(顔と名前が覚えられている)や学校行事の高校代表をやったくらいが成果である。

この高校の代表の任務の時、通常(一般生徒)の登校時間より早く行く必要があった。起床は問題なかったんだけど、乗るべき電車の時間を誤って認識していて、とんでもなくダッシュしたことを覚えている。この日が、実家から最寄り駅への最速記録だ(たぶん)。
あと、その任務の前に校長に挨拶しに行くのが通例らしく、校長室で雑談したときに、校長の出身大学が僕の志望校と同じと知った(記憶がある)。見事一浪を果たし、その第一志望の大学を卒業した。謎の母校愛だ。
ちなみに、その任務には中学の代表もいたのだが、校長との挨拶の時に現れなかった。当日、「どんな失礼なやつや~」と思いつつ、自分が危うく遅刻しそうになってテンパってた僕が目にしたのは、とんでもない美女だった。
名前とか聞かんかったなぁ。

そんな校長が担当する宗教の授業は、専用の部屋(畳の教室)で、校長の話を聞いたりビデオを見たりするものだった。
あっという間にネタが尽きたのか、例年の定番かはわからないが、クラスのみんなの前でフリータイトルのスピーチをしようではないかという雑な企画だ。我こそはという豪傑を募ってみたが、誰も名乗りでない。その結果、校長の目の前で、微妙に顔を知られている俺が校長に誘われたのだ。
この頃から、頼まれると断れない性格の俺だから、引き受けることにした。そのかわり(?)、最大で授業時間1回分まるまるしゃべっていいという出血大サービスだった。

スピーチのチャンスを得た頃、テレ朝系と記憶するが、テリー伊藤プロデュースの「怪傑!通勤仮面」とかそういうタイトルの深夜番組をコッソリ見ていた。テリー伊藤や、当時リクルート(年収3000万とか言ってた)で、後に東京都初の民間人校長なんかでも有名な藤原和博氏や、当時レースクイーンでバラエティー的にはブレイク前の吉岡美穂が出ていた番組だ。目的は、、、そうだね、吉岡美穂が可愛かったんだろう。吉岡美穂は、その後、ジローラモ氏とNHKでイタリア語講座をやったことがあって、この影響で「俺は大学生になったら、第二外国語はイタリア語やるんや」と強く決心するきっかけを与えてくれた。なお、自分が進学した大学は、第二外国語にイタリア語がなく、卒業に直接関係ない授業としてしか選択出来なかったので、結局勉強しなかったのは、誰にも話したことがない。

その番組で、テリー伊藤だったか、藤原氏だったかもはや曖昧(テリー伊藤な気はしてる)だけど、「人間は、どこまで頑張っても満足しない」みたいなことを言っていた。僕には、この言葉には共感したし、強く印象に残っている。
今思えば、“満足しない”ということを「欲深い」ではなく、「向上心が尽きない・勤勉だ」と疑いなく理解したのが良かったと思う。(番組で、真意の説明はあったかもしれないが、記憶がない)

ということで、この言葉を題材に、宗教の時間で、40分ほどクラスみんなの前で話したのだった。
ガチじゃん!超恥ずかしい!

俺、転職セミナーの基調講演でもやったんかな…

もともと宗教の時間は、後方に座る生徒にとっては、英単語帳を学習する時間と等しく、校長が話そうが、俺が話そうが変わらなかった。単語帳見てるやつを目の当たりにすると、スピーチする心が折れそうなもんだが、気になってる可愛いクラスメートの女子が、スゴいこっち見て聞いてくれたので、とんでもなく楽しかった。

その子に関してだが、mixiというSNSが生まれ、話題だった俺が大学4年の頃、彼女の名前で検索したら見つかったので、メッセージを付けて友達申請をしたことがあった。
すると、どうなったと思う?

申請は承認されず(友達になれず)、翌日にはアカウントに付いている名前が「もも たろう」に変更されたのだ!

この事件が、当時友達を見つけやすくするために実名登録が推奨されていたのが、方針転換に至るきっかけになった…ということはないだろうが、少なからず自分にとっては、実名制なSNSへの抵抗感を植え付けたと思う。

人は、時間が経てば変わってしまうのだろうか…
彼女は、きっとすごい美人になっているはずだ。そして、俺と毎朝挨拶するような関係は失われたのだ。俺が、ただ気持ち悪かったのだろう。

妥協するのが下手だったり、こだわりが強く出過ぎることがあるのは、この金言が悪く出たという話だと思う。自分のことのようだ。

自分が完璧主義の傾向を持っているという自覚がある。そこをうまく突かれているのではないかという案件も…
一方で、心底どうでもいいとか、超めんどくさいということもある。

生きていると、「これって、大丈夫かな」と迷うことがある。そうしたときに、今回の金言を思い出しては、また深みにハマるのだ。

“もっと頑張れるはず”とか思い始めると、キリがない。向上心を持ち続けることは正しいが、たまには自分の成果を、ただ喜ぶようなことをした方が、心が健康だと思う。

水分補給を忘れずに。
それでは。

四月は消えるとき

4月だ。

南波志帆(福岡県出身の女性シンガー、俺の嫁)が、春が苦手で、その理由が別れだ的なことを言っていました。
春、もっと言えば、3月末とか4月になってということかなと思いましたが、とても共感するところです。

なんで共感するのだろうかと自分で考えてみると、どんなにポジティブであっても、よいこと・よい出会いがある裏付けはない一方で、失うこと・離れていくことは事前に決まって必ず実施されるからなんだと考えました。

例えば、好きなラジオ番組が終了することは、改編期には起こるものですが、待望のパーソナリティが担当する番組とか、超絶面白い番組が始まる確約などないのです。

最近は、芸能人の進退なんかで、とてもショッキングなことがありました。
成宮寛貴氏の引退、橋本奈々未(ななみん、唯一本人を見たことがある乃木坂46メンバー(当時)、俺の嫁)の引退、スフィアやゆいかおりの音楽活動休止(ゆいかおりは解散に近そう)、石原夏織(キャリさん、俺の嫁)のシグマ・セブン退所などだ。
本当にビビったのは、成宮くんと、ゆいかおり、キャリさんの三つだが…

春の時期に、もっぱら悲しい気持ちになるきっかけになったのはなんだったろうと考えると、大竹佑季だったのではないかと思う。

大竹佑季と言えば、ホリプロスカウトキャラバンのグランプリ受賞者であることは知っている人は知っているところだ。
宮城県出身だということで、東北放送でラジオ番組をもっていた。僕が大学3年の9月頃だったと記憶しているが、ふと東北放送のラジオをつけたら放送されていたのが、「大竹佑季のショコラレーベル」だったことは、あまりにも有名な話。
番組は翌年3月で終了してしまい寂しいものだったが、大竹佑季を知ってから半年の間に、2ndシングル・ファーストアルバム発売、深田恭子主演の映画「天使」に出演と、芸能活動は順調なように思えた。
なお、僕が大学3年の学祭といえば、全国的にも話題になった、男女平等だかなんだかの反発でミスコンが吹き飛んだやつだった。ミスコンに確保されていた野外ステージの時間だったはずのところに大竹佑季を引っ張って歌ってもらったのを見ることができたのは、大学生の大切な思い出の一つである。
シャイボーイすぎて、彼女に話しかけられなかったことは、今でも悔やまれる…

仙台のラジオが終わり、僕はなぜだか大竹佑季の活動がより全国区で進んで行くんだと思っていた。
仙台にいた頃の夜の活動の一つが、ニッポン放送の遠距離受信だった。「田中麗奈ハートをあげる」が番組終了するまで聞いていた(つもりになっていた)し、上戸彩のラジオも継続していたのだ。

大学4年になって、別に追い詰められていた的な心理はなかったつもりなのだが、恐ろしく就職先が決まらなかったということがあり、当時の心の支えは、大竹佑季のFirstアルバムだった。

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1曲目~4曲目(中でも、1曲目の『眠る孔雀』、3曲目の『都会の羊』が大好き)の流れとか、ただただ抜群。
そして、有名な『scarborough fair(スカボロー・フェア)』は、僕にとってはサイモン&ガーファンクルではないし、心が叫びたがってるんだ。で流れた曲でもなく、大竹佑季が歌唱したものなのだ。

夏が近づくにつれ、就職のことを考えると、応募できるもの自体が減ってきて厳しい感じはしてきていた。
そんな中、自分は、“土曜日の23時過ぎにニッポン放送をつけると大竹佑季がラジオ番組”をやっているという謎の妄想が爆発し、毎週のように長距離受信をしていたのだ。
結局、雑音がキツイので、脳が聞こえないと思えば聞こえなかったし、女性の声と思えるものは「大竹佑季の喋り」だと思い込んだのだ。事実は分からないが、限りなく、自分の妄想だろう。

大竹佑季のショコラレーベルが終わってから1年後、自分は大学を卒業し、就職に伴って千葉県に引っ越しした。
その間に、大竹佑季はホリプロを辞め、東芝EMIとの契約も終了になったことを知った。
2007年4月、アイドルマスター XENOGLOSSIAというアニメがあった。
このエンディングテーマを歌っている「Snow*」が、Lantis所属の大竹佑季ヴォーカルプロジェクトだった。コレをきっかけに調べたら、ホリプロじゃなくなっていた、ということだったと思う。
アイドルマスター XENOGLOSSIAが、チバテレビを初めて見るきっかけになったのだった。

それからは、Snow*の動向は注意していて、キミキス pure rougeをチバテレビで毎週見ていたのもエンディングを歌っていたからだし、シゴフミのアニメは見ていなかったけどエンディングはチェックしたいたし。

1年ちょいで三つのシングルを出し、全てアニメのエンディングに採用されたのだから、Lantisアーティストとしては、順調だったと言えるのだが、その後、ぱったりと作品がなくなってしまう。ただ、寂しかった。
(コンピレーションアルバムに参加ということはあったが)

つまり、僕は大竹佑季を、ショコラレーベル+ホリプロの大竹佑季と、Snow*のヴォーカリスト大竹佑季の二度失っているのだ。
やはり、ショコラレーベル終了の2006年4月のことが、色濃く頭に残っているのだと思う。

いや~、東京に来てからも、ゆきちゃんが出るライブハウスみたいなところに行ったり、Ustreamやって時は毎回見たりしてたなぁ…
そういうのも、自然と無くなっていった。。

櫻子さんの足下には死体が埋まっているのエンディングでTECHNOBOYS PULCRAFT GREEN-FUNDのフィーチャリングヴォーカルで現れたときは、ソファーから立ち上がったよね。

簿記検定の勉強を放り出して、ゆきちゃんが歌うっていうイベントを見に中野にいったもん。

まぁ、これだって自分名義ではないから、単発の仕事だが。

果たして、また彼女が立ち上がるときは来るだろうか。
永遠に楽しみにしていそうだ。

4月は消えるとき。
だから、今を、存在しているという事実を、ちゃんと大切に。